ページトップへ戻る

ライフリンク・ヒストリー

HOME  > 活動の歩み > ライフリンク・ヒストリー
ライフリンクが歩んできた道のりをたどる
「ライフリンク・ヒストリー」

第3部 願いかなった日・その先へー
2006年5月~2017年3月

2021年2月

相談業務に踏み出す

ライフリンクが新たに始めた相談業務には、いくつもの難題が待ち受けていました。
まず、相談員の数が絶対的に足らないことでした。それは今、現在(2022年8月時点)も続いています。
もともと、国内の相談業務の最大の課題は「なかなかつながらない」ことでした。対応できる割合は、10%以下という事例がほとんどでした。
ライフリンクが2021年2月に立ち上げたオンラインで電話相談を受けられる全国ネットワーク「#いのちSOS」の場合、対応できた割合は、20%台前半から30%台半ばで推移しています。
しかし、有名俳優らの自殺報道の後は相談が急増し、対応率はさらに低くなってしまうのが現状です。
ライフリンクが以前加わっていた全国的な電話相談事業では、電話を1度かけてつながらず、それ以降は電話してこなかった人が毎日40人から50人いました。日本の1日平均の自殺者数は60人前後です。この中に電話をかけてつながらなかった人が含まれている可能性もあります。ライフリンクは、「つながる相談」の構築が急務だと考え、自ら自殺防止の電話相談「#いのちSOS」を立ち上げることにしたのです。

そして、こうした手薄な状況に追い打ちをかけたのが、コロナ禍でした。
いわゆる「三密」を避けるために、相談員が集まれず、窓口を大幅に縮小せざるを得ない事態が続発しました。
コロナ禍で、仕事を失う人が増え、学校に行けない若者たちが深い孤独にさいなまれ、自殺リスクが高まる中での縮小でした。関係者はみんな断腸の思いでした。
ただ、コロナ禍によって、新たな希望も見えてきました。それは、リモートによる運営の普及です。相談員が集まれないことで、相談員が全国に分散しながら対応する態勢づくりが急速に進みました。
ライフリンクがリモートでの相談員を募集したところ、幅広い世代から様々な能力を持った人たちが数多く手を挙げてくれました。自殺対策への関心が想像以上に社会に広がっていたことを示す、うれしい誤算でした。
ライフリンクは、相談員を担える人材のさらなる発掘に努め、力の及ぶ限り、態勢の強化を図ろうとしています。

2017年10月

「座間9人殺害事件」の衝撃

2017年10月30日、衝撃の事件が発覚しました。
「座間9人殺害事件」です。
ツイッターで「死にたい」「消えたい」とつぶやいていた若い女性たちは、ツイッターを通じて後に逮捕される男と知り合います。
男は巧みな言葉を使い、優しく親切な人物のように見せかけていました。
彼なら自分の苦しみを聞いてくれる。わかってくれる……。
そう信じた女性たちは、引き寄せられように座間にまで出かけてゆき、そして、殺害されたのです。

SNSが、史上まれな凶悪犯罪に利用されてしまいました。自殺対策の現場では、以前からSNSの危険性が指摘され、相談業務に加えようという意見はありました。ただ、テキスト交換だけの相談には、その効果を疑問視する声もあり、なかなか実現しなかったのです。
しかし、この壮絶な事件を前に、厚生労働省は早急に対策を打ち出すことを決めました。ライフリンクも加わります。
ライフリンクの活動にとって大きな転換点でもありました。それまでは、様々な場所での活動や関係者をつなぎ、現場の声を政策として具体化し、自殺対策の社会的枠組みの実現に専念する形で活動してきました。直接的な相談支援とはあえて距離を置いてきました。その方針を改め、自ら直接相談支援に関わることを通じて、自殺防止相談の社会的インフラ構築へと踏み出したのです。

2018年3月、「生きづらびっと」と名付けたSNS相談を始めました。すると、苦しさを訴え、救いを求める声が洪水のように押し寄せてきました。やはり、これほどの数の人たちが相談を求めているのか。相談インフラの構築に向けた決意が、さらに強固なものとなりました。
相談アクセス(ユニークユーザー)数は、2021年度は、毎月5000人~6000人台で推移しました。しかし、12月は1万2000人を超え、1月も8000人近くになりました。2020年度は有名な俳優の男女2人が自殺する事件がありましたが、その月はどちらも1万5000人を超えました
そして、コロナ禍の襲来です。活動休止に追い込まれる電話相談(民間団体)が目立ち始め、ライフリンクはそこにも強い危機感を持ちます。ITベンチャーの協力を得てオンラインで電話相談を受けられる全国ネットワークを構築し、電話相談「#いのちSOS」(2021年2月開始)も立ち上げました。

2016年9月

再びの全国キャラバン

ライフリンクが、長野県、日本財団と自殺対策を進める協定を結んだ2016年9月14日、その協定締結に合わせて、長野県からもうひとつの取り組みが始まりました。
「地域自殺対策トップセミナー」です。
地域自殺対策トップセミナーは、ライフリンクと厚生労働省が推進団体となり、開催地の都道府県と3者が共催して全国展開するものです。最大の特徴は「トップセミナー」の名称が示すように、市町村長たちが対象になったことです。改正自殺対策基本法の下、自殺対策計画の策定が都道府県だけでなく市町村にも義務付けられました。地方自治体のトップすべてが、より重要な役割を担うことになり、セミナーは、その意義を理解してもらうことを目的としました。
セミナーの開催には、さらに大きな意味を見いだすことができます。
まず、日本の自殺対策が、地域レベルの実践的な取り組みへと進化したことです。
そして、自殺対策基本法が議員立法で成立して10年。議員主導だった法律が、名実ともに政府の仕事として、しっかりと深化し根付いたことも表していました。
セミナーに登壇したライフリンクの清水康之代表は、市町村長たちにこう呼びかけました。
「自殺に対応できる地域のセーフティーネットを築ければ、それは地域の
様々な問題にも対応できるセーフティーネットにもなる。つまり、自殺対策は地域づくりの絶好の切り口となり得る。ただし、それを牽引できるのは首長の皆さんしかいない」
セミナーは、2016年度末 までの半年間だけで、長野県、徳島県、千葉県、香川県、大分県、埼玉県、広島県、山梨県、茨城県、 愛媛県、新潟県の11県で開催し、2017年度にはほぼ全国を一巡するという異例のスピードで行われました。最終的に47都道府県すべて行われ、開催後のアンケートでは、100%近い参加者が「とてもよかった」「よかった」と回答するなど極めて高い評価を得ました。
ライフリンクは、2007年度にも、自殺対策をテーマにした全国キャラバンを実施していました(ヒストリー⑰願いかなった日・2007年6月 参照)。
自殺対策基本法の理念を全国に伝え、「自死遺族のつどい(分かち合いの会)」の立ち上げ支援につなげようと、「自死遺族支援全国キャラバン」と銘打ちました。この時の全国キャラバンは、民間団体のライフリンクが発案し、展開しました。
一方、今回のキャラバンである「地域自殺対策トップセミナー」は、厚生労働省が推進団体に加わり、ライフリンクとともに全国を周ったのです。
自殺対策が本格化して10年、さまざまな人たちの努力の積み重ねから生まれた新しい光景でした。

2016年9月

進む自治体との連携

2016年9月14日、ライフリンクは、長野県、日本財団と自殺対策を進める協定を結びました。
4月に施行された改正自殺対策基本法はすべての自治体に、自殺対策計画の策定を義務付けました。
長野県は、改正された基本法の下、全国の自治体のモデルを目指す強い決意を示し、ライフリンクはそれを全力で支えることにしたのです。

ライフリンクは、7月8日にも東京都江戸川区、日本財団と協定を結んでいました。

長野県は、未成年の自殺が深刻な事態でした。子どもの自殺をゼロにするため、3つの柱から成る対策が立てられました。①自殺のリスクを抱えた未成年者への危機介入②自殺リスクを抱える前段階の予防策③自殺のリスクを抱えさせない「生き心地の良い地域づくり」——です。
①により、児童精神科医や弁護士、精神保健福祉士やインターネットの専門家等をメンバーとする「長野県 子どもの自殺危機対応チーム」が作られて、学校と地域が連携して子どもの自殺リスクに対応するための実践的支援が行われるようになりました。ゲートキーパー研修の拡充や、スクールカウンセラー、スクールソーシャルワーカーの拡充と資質向上なども進められています。
②では、子どもたちがSOSを出せるようにする教育の全県展開や、SNSを活用した情報発信の強化が図られています。
③では、若者から「生き心地のよい」地域づくりの提言をもらう機会の創出などの目標が掲げられました。

ライフリンクの自治体連携は、東京都足立区と自殺対策に向けた総合対策推進協定を締結したことに始まります(2009年5月、ヒストリー㉒参照)
2022年からは広く全国の自治体と「連携自治体事業」協定の締結を始めています。長野県、東京都足立区、江戸川区のほか、岩手県、福島県郡山市、茨城県取手市、東京都港区、新潟県見附市、京都府京丹後市、神奈川県横須賀市 神奈川県座間市と広がっています。

2017年3月

いのち支える映画会

「自殺」に関心をもってもらうにはどうすればいいのか。
『「自殺」に関心のある人』以外とつながるにはどうすればいいのか。
そんなライフリンクの問題意識から始まったのが、「いのち支える映画祭」でした。
2016年3月に第1回目が行われ、第2回目の開催となった2017年3月11日のイベントには、130人が集まりました。
2016年4月の改正自殺対策基本法の施行により、3月は自殺対策強化月間に定められています。
この啓発事業の一環として、さらに東日本大震災の発災日でもある3月11日に「いのち」を掲げました。クラウドファンディングで38万6000円を集め、費用にあてました。

前編では、五十嵐匠監督の映画「十字架」を上映しました。
いじめ自殺を題材にした重松清さんの小説が原作です。
上映後のトークセッションでは、五十嵐監督と福祉ジャーナリストの町永俊雄さん、ライフリンクの清水康之代表が登壇して「いのち」について語り合いました。
後編は、精神病院の撤廃が進められていた1980年代のミラノを舞台にしたイタリア映画で、ジュリオ・マンフレドニア監督の「人生、ここにあり」を上映しました。
その後、再び町永さんと清水代表が登壇しました。
会場からは、精神病院の撤廃を定めたイタリア・バザーリア法の訳書を著した特別支援学校教員の大内紀彦さんが発言し、議論を深めてくれました。
参加者の評価は非常に高く、イベント後のアンケートでは96%の人が「とてもよかった」「よかった」と回答しました。
参加者の一人は「家族の中で自死した人がいる。自分はどう生きればいいのか、わからかなかった。けど、今日参加して、自分の中で何かが変わった。これからを、見て生きようと思った」とのメッセージを残しました。

2016年9月

韓国とスクラム組んで

自殺をめぐって、日本ととてもよく似た状況の国があります。
お隣の韓国です。
そして、事態はより深刻です。
「日韓の自死遺児たちの交流会をやれませんか」。
ライフリンクで2008年からインターンをしている韓国人留学生、朴恵善(パク・ヘソン)さんが清水康之代表に提案したのは、2016年3月のことでした。
「韓国は10年前の日本のように自殺がタブー視されたままです。日本の自殺対策は、自死遺児たちが声をあげたことで前に進みました。韓国の遺児たちにもぜひそのことを伝えたい」と自らの思いを伝えました。
清水代表は「ぜひやろう」と即答します。
こうして「日韓自死遺児交流会」が実現しました。2016年9月30日のことです。
10月2日までの2泊3日の日程で、日本から8人、韓国から3人の自死遺児が参加し、韓国いのちの電話、NPO法人グリーフサポートリンク(全国自死遺族総合支援センター)、ライフリンクのスタッフらが加わって総勢32人の交流会になりました。
費用はクラウドファンディングで62万円を集めました。

国立オリンピック記念青少年総合センターを会場に、日本と韓国の現状をそれぞれ共有しました。
韓国は日本と同様に同様に自殺で亡くなる人の数が1998年に急増しました。
2013年のOECD調査で、韓国の自殺死亡率(人口10万人あたりの自殺者数)は28.7人とOECD諸国の中で最も深刻でした。
日本の18.7人の1.53倍、OECD平均の12.0人の2.4倍にあたります。
参加者たちは、率直に意見を交換し、懇親会では心の奥底から語り合いました。
「交流会ではたくさん泣いてしまいましたが、心はとても明るくなりました」。韓国の自死遺児の一人はこんなメッセージを残しています。
自殺への社会の偏見をなくすことこそが急務であることを日韓の参加者たちは改めて確認しました。日韓自死遺児交流会は2018年に韓国で2回目を開催し、2020年には日本で3回目を開催することになります。

2016年4月

自殺対策基本法さらに強く広く

2016年4月1日、改正自殺対策基本法が施行されました。
自殺対策基本法は、最初の施行から10年を経てさらに強力な法律になりました。まず、自殺対策は「生きることの包括的な支援」と明確に位置付けられました。
さらに都道府県だけでなくすべての市町村に「自殺対策計画」の策定が義務付けられました。これに伴い、すべての都道府県と政令指定都市に「地域自殺対策推進センター」が置かれることが定められました。地域センターは、市町村の自殺対策計画策定や研修会の開催等を支援する「エリアマネージャー」の役割を担います。

また、子どもたちに向けては、SOSを言い出せるための教育や啓発の推進が盛り込まれました。
学校で「SOSの出し方」を学ぶ「自殺予防教育」を実施していくことになりました。
15~34歳の死因で自殺がトップの国は、先進7カ国の中で日本だけでした。フランスやドイツ、アメリカは2位、イタリアは3位でした。

特筆すべきは、自殺対策の地方自治体への交付金について、恒久予算化が実現したことです。
これまでは補正予算の中で計上されてきましたが、当初予算の中に位置づけられることになりました。
財政基盤が安定したことにより、市町村は自らの「自殺対策計画」に基づいて中長期的な視点で対策に取り組める態勢が整いました。

2015年の自殺者は、2万4025人と2万5000人を下回りました。
2005年比で自殺者を20%減らすという数値目標も1年前倒しで実現しました。
しかし、それでもなお毎日平均50~60人が自殺で亡くなっているのです。
「誰も自殺に追い込まれることにない社会の実現」には、新たな取り組みが求められていました。

2015年5月

自殺対策基本法10年

2015年、自殺対策基本法が施行されて10年目を迎えました。
全国の自殺で亡くなる人の数は2012年に3万人を下回って以降も減り続けていました。
しかし、ライフリンクは、ここで社会に「一服感」が出ることを強く警戒していました。
一日平均70人が自殺しているという厳しい現状には何ら変わりはなく、さらに対策を強めていくことが必要だと訴えていました。
5月13日、ライフリンクは、自殺対策全国民間ネットワーク、自殺のない社会づくり市区町村会、自殺対策を推進する議員の会と共催で、参議院議員会館で「自殺総合対策の更なる推進を求める院内集会」を開きました。
ここでの議論をふまえ、自殺対策基本法の改正をはじめとする12項目の要望書が、超党派の国会議員でつくる自殺対策を推進する議員の会の尾辻秀久会長に提出されました。

節目の10年に向けて国会がまた動き始めました。
6月2日、参議院厚生労働委員会で自殺総合対策をテーマにした審議が行われ、「自殺総合対策の更なる推進を求める決議」が全会一致で可決されました。
決議は、政府に対してさらなる自殺対策の推進を求めるとともに、立法府の責任において、自殺対策基本法の改正に取り組むことが盛り込まれました。
超党派の国会議員でつくる自殺対策を推進する議員の会は、自殺対策に取り組む28団体のヒアリングを行ったほか、関係省庁への意見照会やインターネットでの意見公募を進め、11月25日に自殺対策基本法の改正案をとりまとめました。
改正案は、翌2016年2月18日の参議院厚生労働委員会に委員長提案として提出され全会一致で可決、以降、参議院本会議、衆議院厚生労働委員会、3月22日の衆議院本会議とすべて全会一致で可決され、成立しました。
また、法案成立直前の3月19日には、自殺対策に取り組む実務家や研究者、政策立案者らが参加する「日本自殺総合対策学会」による改正法案についてのフォーラムが開催されました。

2013年10月 
2014年9月

WHOがライフリンクを評価

2013年10月超党派の議員連盟「自殺対策を推進する議員の会」が設立され、ライフリンクの清水康之代表がアドバイザーに就任しました。
2006年1月に結成されていた「自殺防止対策を考える議員有志の会」を発展させたものです。
「有志の会」には、自殺対策基本法成立に大きな役割を果たした生前の民主党の山本孝史さん、厚生労働大臣として尽力した尾辻秀久さん、山本さんのパートナーとして厚生労働委員会をとりまとめた自民党の武見敬三さん、後に内閣府特命担当大臣として自殺対策を担当することになる社民党の福島みずほさんが名を連ねていました。「有志」は「連盟」へと基盤を広げたのでした。

「議員の会」は、2013年11月、「自殺総合対策の推進に不可欠な財源確保に関する要望書」を安倍晋三首相に提出します。
また、「議員の会」の下には「若者自殺対策ワーキングチーム」が設置され清水代表がアドバイザーを務めました。
民間団体や自治体にヒアリングを進め、若者の自殺対策に関する緊急要望を菅義偉内閣官房長官に提出しました。国会に議員連盟という「核」ができたことで、自殺対策はさらに範囲を広げ、密度を高めていきました。

2014年9月、世界保健機関(WHO)のリポート「自殺を予防する 世界の優先課題」が公開されました。
その中で、WHOは日本の取り組みを成功事例として評価しました。
「日本国において、自殺は依然として社会的タブーであった。自殺は個人的な問題と考えられ、広く公に議論されることはなかった」
こう分析した後、そうした状況を変えたけん引役としてライフリンクの活動を紹介したのです。   
WHOは、自殺対策基本法ができる前年の2005年の段階でも、ライフリンクの活動に注目していました。「世界自殺予防デー(9月10日)」で、ライフリンクが日本で初めて大きなイベントを開催した際、後援団体としてそれを支えたのです。当時まだ設立1年足らずだったライフリンクを、また、政府からの後援もないイベントを、国際機関のWHOが後援するというのは極めて異例のことでした。自殺対策が遅れていた日本のけん引役としてライフリンクに期待したものと関係者の多くは受け止めました。その後もライフリンクはWHOの後援を受けて毎年、大規模な啓発イベントを開催していきます。こうして「世界自殺予防デー」は、日本に根付いていきました。

2013年1月・3月

自殺者3万人を下回る

新年に流れたひとつのニュースが大きな話題になりました。
2012年の全国の自殺者数が、前年より2885人(9.4%)少ない2万7766人となり、1997年以来、15年ぶりに3万人を下回ったのです。
3年連続の減少でした。
警察庁が速報値として発表しました。
警察庁が新年早々に、その前年の自殺者数を発表するようになったのも、そのこと自体が自殺対策の前進と言えるものでした。
2006年に自殺対策基本法ができるまで、全国の自殺者数の発表は夏ごろまで待たなければなりませんでした。
しかし、法律の施行、自殺総合対策大綱の制定を受けて、月ごとに速やかに発表されるようになったのです。
各地各所で進められた自殺対策が実を結び始めていました。
ただ、減少し始めたとはいえ、3万人近い人が自殺している現状は深刻です。ライフリンクは、さらなる対策推進へと動いていきました。

警察庁の統計から、新たに見えてきた課題がありました。
「就職失敗」が原因の20代の自殺は07年の60人から2012年は149人に増えていたのです。
学生・生徒でみると、16人から54人に増加していました。
自殺未遂者は既遂者の10倍~20倍に上るとみられている中、年間1500人~3000人もの20代の若者が「就職失敗」を理由に自殺を図っている計算になります。
ライフリンクは、学生インターン9人とともに、就職活動中の大学生ら121人から聞き取り調査をしました。
その結果、7割が就職活動の現状に不満を抱いている現状がわかりました。学生たちの切実な生の声を紹介したことも大きな共感を呼びました。
不合格を告げる「お祈りメール」のしらじらしい文面、こっそりと仕組まれている「大学フィルター」など学生たちのつらい状況が浮き彫りになりました。
ライフリンクは「選考過程を明確にして不信感を解消する必要がある」と提起しました。
ライフリンクと学生インターンたちは、さらに追加の調査を行い、10日に改めて調査結果を公表し、学生を過度に追い込むことのない就職活動にするために、さまざまな観点から改善を呼びかけました。

2012年8月

明記された異例の文言

2012年8月28日、自殺総合対策大綱が改訂されました。
2007年6月の策定以来、初めての全面的な見直しでした。
いくつも改められた点がありますが、とりわけ特筆すべきは、
「自殺総合対策大綱」の副題と冒頭に
「~誰も自殺に追い込まれることのない社会の実現を目指して~」
が明記されたことです。
政府がつくる大綱としては極めて異例のことでした。大綱の改訂には、ライフリンクの清水康之代表が深く関わりました。

新しい大綱では、増加傾向にある若年層の自殺対策を強化することも打ち出されました。
当時、大きな社会問題になっていた大津市の中学生いじめ自殺などを受けた対応です。
児童や生徒の自殺の原因にいじめの可能性がある場合、第三者が調査する方針も盛り込まれました。
また、人口10万人当たりの自殺者数を2016年までに、2005年に比べて20%減らす目標も掲げました。
2005年の自殺死亡率は24.2で、それを20%減少させると19.4となります。
後にわかることですが、2016年の自殺死亡率は16.8となり、2005年時点から30.6%の減少し、目標を10.6ポイント上回る減少を達成することになります。

具体策としては、24時間体制の無料電話相談や、インターネットを活用した支援策の拡充も明記されました。
さらに、自殺を「誰にでも起こり得る危機」と明確に位置付けました。
再び自殺を図る可能性が高い自殺未遂者に向けては、継続した支援体制の整備や、小規模事業所を中心とした職場でのメンタルヘルス対策の強化などを求めました。
東日本大震災の被災者については、ストレス軽減など行政や民間団体を支援する方針を盛り込みました。

「~誰も自殺に追い込まれることのない社会の実現を目指して~」の理念を広く深く浸透させるべく、ライフリンクをはじめ各団体はさらに活動を活発にしていきます。 

2010年9月 
2011年7月

民間つなぐネットワーク

2010年の世界自殺予防デーの9月10日、「自殺対策全国民間ネットワーク」の設立総会が開かれました。
ライフリンクは地域との連携を広げていきましたが、さらにそれぞれの現場で活動している民間団体をつないでいこうという取り組みです。
北海道から沖縄まで、全国の団体が顔をそろえました。
ライフリンクのようなNPO法人、ボランティア団体、学生団体、当事者グループのほか、「自死遺族支援弁護団」や「自殺対策に取り組む僧侶の会」など専門家で組織された団体も参加しました。
それぞれの団体が受け持つ分野も、「法律」「医療」「政策立案」「経営」「教育」「グリーフケア」と幅広く網羅する形になりました。

事業形態も、「電話や面接、手紙による相談」から「分かち合いの会や当事者グループの営み」「自殺リスク地での危機介入」「社会への啓発」と多岐にわたりました。
それまで個別に活動してきた団体が「民間ネット」の下に集結したのでした。
2011年3月の東日本大震災の後には、ライフリンクが事務局になり、民間ネットの10団体が参加して、被災者遺族に向けた「死別・離別の悲しみ相談ダイヤル」が設けられました。
相談員には、阪神淡路大震災で遺族の相談電話の経験者の加わりました。弁護士や精神科医、僧侶らも対応にあたり、実務的な問題にも対処しました。
さらに、ライフリンクが中心になって進める「つながりの強化」は、自治体同士の連携も実現していきました。
2011年7月には、「自殺のない社会づくり市区町村会」が結成されました。正式名称は「いのちささえる真心あふれる社会づくり市区町村連絡協議会‐自殺のない社会を目指して‐」といい、長い名前に自治体の覚悟がこめられました。
会は設立趣旨の中で「広く自治体が連携して相互に施策のネットを結び重ねていくことにより、思わぬ裂け目や抜け穴のないより十全なセーフティネットの構築も可能になる」と指摘しています。
会員数は2022年現在、320を数えています。これとは別に12府県が特別会員に名を連ねています。幹事自治体は京丹後市、世話役自治体は福島県郡山市、茨城県取手市、長野県佐久市がそれぞれ自治体間の連携を密にしています。

2009年5月

足立区と結ぶ画期的連携

ライフリンクは、地域との連携をさらに深めていきます。
2009年5月26日、東京都足立区と自殺対策を総合的に推進するための協定書を締結しました。
自殺対策で、自治体とNPOが協定書を結ぶのは極めて珍しく、大きな注目を集めました。
足立区は、2006年に自殺者が東京23区で最多になるなど、都内でも自殺者が多い地域でした。
近藤弥生区長は締結にあたり「足立区では10年間で町会一つの人口にあたる1616人が自殺しています。生きたいという声にならない叫びを受け止められる区役所にしたい」と話しました。
ライフリンクは、「自殺実態調査1000人調査」を通して、人が自殺に追い込まれるまでには、失業や身体疾患、負債、うつ病など平均して四つの要因を抱え込んでいることを明らかにしました。
また、自殺者の72%は生前に何らかの専門機関に相談していた実態も浮かび上がりました。

これを受けて、足立区とライフリンクは、「都市型自殺対策モデル」の構築を打ち出しました。
行政や民間の複数の相談窓口が連携し、自殺の要因の連鎖を断ち切り、自殺を防ごうとする発想です。
自殺に至る問題を上流までさかのぼり、それぞれの要因を総合的に解決していくことを目指しました。
区長自らが参画して「自殺対策戦略会議」を設置し、全庁的な取り組みを推進します。全国のモデルとなる様々な事業が生まれていきました。
ライフリンクは翌2010年4月には、東京都荒川区と地域の医療機関と連携し、自殺未遂者の実態と支援のあり方について研究を始めます。
これら地域との連携はさらに大きく広がっていくことになります。

2009年11月 
2010年3月

内閣府参与に就任

2009年11月12日、ライフリンクの清水康之代表は内閣府参与に就任しました。
内閣府参与となったことで、民間団体では扱えなかったデータの分析が可能になりました。
内閣府が立ち上げた「自殺対策緊急戦略チーム」のメンバーに加わり、11月27日に「自殺対策100日プラン」を提言しました。
例年、年度末の3月から自殺が急増します。
3月までの100日間で実施すべき4つの緊急的施策として
①自殺実態に基づく対策の立案
②経営者らを対象にした総合的支援
③自殺多発地を拠点とした総合的支援
④支援策を最大限活用するためのツール開発ーーを掲げたのです。
12月からは、全国のハローワークで行われることになったワンストップサービスに心の健康相談も取り入れていきました。
「自殺実態白書」から浮かび上がった失業や生活苦などの自殺の危機要因を早期に見つけ、取り除こうとする狙いです。
翌2010年2月25日には、自死遺児5人が清水代表とともに鳩山由紀夫首相(当時)と面会し、自殺対策の推進を訴えました。

「自殺対策100日プラン」のマイルストーンとなった2010年3月は、政府によって初めて「自殺対策強化月間」に指定されました。
日本では中高年男性の自殺が非常に多いため、強化月間に合わせて「お父さん、眠れてる?睡眠キャンペーン」も行われました。
「弱い人間とみられたくない」と、精神不調を訴えることに抵抗感がある中高年男性でも、眠れてるか否かについては比較的回答しやすいということで、「眠れない状態が2週間以上続くと、うつ病の可能性があり、自殺につながる危険がある」ことを踏まえて睡眠を入口として展開されたキャンペーンです。
3月30日には、清水代表が内閣府参与として記者会見し、警察庁と厚生労働省のデータを分析した結果を公表しました。
2004年~08年の日別の平均自殺者数は「3月1日」が138人と最も多く、最小の「12月30日」の55・2人とは2・5倍の開きがあることが明らかになりました。曜日別では、月曜が最多で、土曜が最少でした。

強化月間後、自殺者数にも変化があらわれました。
3月の自殺者は全国で2898人で、前年の3月に比べて6・6%、205人減りました。
自殺者の月別統計が発表されるようになったのは2007年1月以降では、2番目に大きい減り幅でした。
1月から3月までの自殺者も7815人と前年同時期より445人減りました。
また、前年9月から7カ月連続で前年の同月を下回ることになりました。

2009年3月

行政をチェックする

自殺対策基本法ができて、行政はどのように変わったのか。行政はどこまで真摯に自殺対策に取り組んでいるのか。
ライフリンクは、行政を対象に厳しいチェックを始めます。自治体の自殺対策実施状況を明らかにすることは、「地域の自殺対策」の課題を浮き彫りにすることでもあります。
あわせて先進的な活動事例を掘り起こし、自殺対策の全国的な底上げを図ることをめざしたのです。
2006年度、2007年度、2008年度と調査を進め、その結果を公表していきました。
リーマンショックに襲われた2008年度は、2008年9月と2009年3月の2回に分けて調査しました。
これらの調査は、全国64の都道府県と政令指定都市を「A」から「E」まで5段階で評価したこともあり、大きな反響を呼び、一面トップで報道する地方紙もありました。

2009年3月に公表した調査結果では、「A」の最高評価を受けたのが、長崎県、秋田県、東京都、石川県、新潟県、愛知県の6自治体でした。逆に「E」の最低評価は、岡山県、山形県、札幌市、川崎市の4自治体でした。
これは低評価の自治体に発奮を促す新たな効果も生みました。調査の結果、民間団体の活動が活発な自治体ほど、行政の取り組みも進んでいることがわかりました。民間の力の大切さが裏付けられた形でした。
ライフリンクは調査結果の総評として、当時は未公表だった警察庁の自殺に関する詳細データの開示と活用の必要性を訴えました。この訴えは、8カ月後、ライフリンクの清水康之代表が内閣府参与に就任することで、実現していくことになります。

2008年7月

479ページの白書 1万部に

ライフリンクが、弁護士や経済学者、精神科医や自死遺族支援団体らとチームを組んで進めた「自殺実態1000人調査」は、自死遺族の方々から直接聞き取りをしていく未踏のものでした。
一人あたりの平均聞き取り時間は2時間30分に及びました。自殺で亡くなった305人についての聞き取りが終わった段階で整理・分析して「自殺実態白書2008」にまとめ、岸田文雄・内閣府特命担当大臣(自殺対策・当時)に提出しました。白書は大きな反響を呼び、自殺対策を大きく前進させていきます。

今回の聞き取り調査によって、自殺の理由は一つではなく、平均で四つの要因が連鎖していることが明らかにされました。
自殺に関連する「危機要因」は
①うつ病②家族の不和③負債④身体疾患⑤生活苦⑥職場の人間関係⑦職場環境の変化⑧失業⑨事業不振⑩過労ーーの順に多く、
上位10項目で全体の7割を占めていました。
それぞれの要因は互いにつながっており、「事業不振→生活苦→多重債務→うつ病」といった経路をたどっていたのです。
自殺が追い込まれた末の死であることをデータで明らかにしました。
さらに、調査は初めて全国の自治体の「自殺の地域特性」を浮かび上がらせました。
それぞれの自治体において、どういった年代・性別・職業等の人の自殺が多いのかを詳らかにしたのです。
具体的には、例えば東京都千代田区は40代の被雇用者の男性、大阪市西区は40代の自営業者の男性、熊本県合志市では40代の無職の男性がそれぞれ最も多くなっているなど自治体ごとの特徴を明示し、対策を迫りました。
自殺対策基本法ができても、現場の自治体からは「何から手をつけていいのかわからない」という戸惑いの声が多く出ていました。
全国の都道府県を回った「自死遺族支援全国キャラバン」に加え、この調査によって市町村は自殺の問題と具体的に向き合う手掛かりを得ることになりました。
479ページの白書の発行部数は1万部に上りました。

2007年9月

自殺実態1000人調査に挑む

ライフリンクが「自死遺族支援全国キャラバン」と平行して進めていたのが「自殺実態1000人調査」でした。
弁護士や経済学者、精神科医や自死遺族支援に取り組む全国の民間団体等と共同で取り組みました。
調査対象は、自殺で亡くなった500人とそのご遺族500人のあわせて1000人です。
毎月100人を対象に聞き取りを進め、300問の第一次調査と1843問の第二次調査合わせて2143問という細部にわたる設問で自殺の実態に迫ろうというものでした。

WHOの「世界自殺予防デー」の9月10日に行われた自殺予防のフォーラムでは、それまでに終えた101人分の中間報告をしました。
判明したのは
(1)背景には複雑に絡み合った要因があり、自殺対策には相談窓口同士の連携が必要
(2)自死遺族は周囲の冷たい反応で孤立しており、支援は孤立を防ぐための工夫が必要
(3)自殺の実態に特徴があり、対象別の自殺対策が重要ーーの3点でした。
職場の勤務事情や多重債務問題でうつ病と診断されながら、その事実が医療機関から職場や家族、関係者に伝わらずに自殺に追い込まれたケースが目立っていました。
フォーラムの中で、自死遺族支援NPOのメンバーは「自死者の遺族は語ることができない部分も多い。1000人でも100人でも、その調査をすべてと思ってほしくない。焦らずに時間をかけて遺族の声を聞いてほしい」と発言しました。

ライフリンクの清水康之代表は「これがすべてとは思っていない。いただいた遺族の声を基に、責任を持って対策を考えて行きたい」と答えました。
この困難で膨大なで前人未踏の調査は、いくつもの新事実を浮かび上がらせていきます。

2007年6月

始まった全国キャラバン

自殺対策基本法に定められた自殺総合対策大綱は、2007年6月8日に閣議決定されました。
ライフリンクは、これに合わせて内閣府や専門家とプロジェクトチームをつくり、全47都道府県でシンポジウムを開く「自死遺族支援全国キャラバン」を始めます。
週1,2回のペースですべての都道府県を回る精力的な取り組みです。
清水康之代表が以前、別の自殺防止シンポジウムに参加した際、自治体関係者から「法律はできたものの、何をすればいいのか分からない」との声を聞き、発案したのでした。
ライフリンクは2007年を「自殺総合対策元年」と位置づけ、活動を加速していきました。

 第1回目のシンポジウムは東京ビッグサイト(1000人収容)で開かれ、満席に近い状態でした。
遺族の話から対策を考えようと3年前に父親を自殺で亡くしていた福岡県の大学生(当時)、桂城舞さんが自分の体験を語りました。
この中で桂城さんは「父が弱い人間だと思われたくなくて、自殺だということを長い間誰にも話せませんでした。 しかし今では、普通の優しい父親だったことや、自殺は他人事ではなく身近にあることを 知ってもらいたいと思います」と訴えました。
続いてパネルディスカッションが行われ、ライフリンクで自殺の実態調査を担当していた山口和浩さんが「1000人(亡くなった人500人とそのご遺族500人の計1000人)調査を通じて、自殺を防ぐヒントを見つけ、遺族がどんな支援を求めているのかも把握していきたい」と話しました。
この内容は、NHKが特集を組んで詳しく伝え、大きな反響を呼びました。

 キャラバンはこの後、秋田、京都、長崎、新潟と回り、翌2008年3月30日の大阪開催で全国47都道府県を踏破しフィナーレを迎えました。
こうして自殺対策を考える取り組みが、少しずつ、しかし確実に、地域の中に根付き始めました。

2006年10月

自殺対策基本法ついに施行

自殺対策基本法は2006年10月28日に施行されました。
法律は、基本理念として「自殺対策を個人の問題ととらえず、社会的な取り組みとしてとらえる」ことを明確にしました。
これは「自殺は個人の問題」と考えることが多かった従来の社会認識に全面転換を迫る画期的なものでした。自殺の多くは、失業や多重債務などで「追い込まれた末の死」であり、世間で考えられがちな「身勝手な死」「意志が弱いゆえの死」ではないと、法律によって認め、定めたのです。

さらに、国と地方自治体、事業主、国民の責務を明示し、国には自殺総合対策大綱の策定と実施を義務付けました。都道府県と市町村には、地域の状況に応じた施策の策定と実施について責務があることを明記しました。。また、自殺の危険性の高い人の早期発見と発生の回避、自殺未遂者と自殺(未遂を含む)者の親族へのケアの推進を求め、自殺防止に取り組む民間団体の支援を定めました。

この1本の法律によって、自殺対策をめぐる環境は一変しました。
自殺総合対策大綱の策定が義務付けられたことにより、政府は省庁を横断した、まさに総合的な施策の遂行が求められるようになりました。
また、全国の自治体の中には、自殺対策の担当を配置するところも出てきました。「自殺対策」が「うつ病対策」と同義に近かった従来の行政からは、信じがたいほどの変化でした。

 環境は整いました。しかし、法律をつくっただけで自殺者は減りません。法律は到達点でなく、出発点であることを改めて確認し、ライフリンクは新たな活動に乗り出します。 

2006年5月・6月

山本議員のがん告白

2006年5月22日、山本孝史さんは参議院本会議の代表質問に立ちました。山本さんは、自らのがんを公表したうえで、がん対策基本法と自殺対策基本法の早期成立を求めました。
まさに命を懸けた訴えは、与野党だけでなく議場を超えて各方面で大きな共感を呼びました。
法案成立への機運は一気に高まりました。
自殺対策基本法は、ひとつボタンを掛け違うと、与野党対決法案になりかねないものでした。
自殺の増加を「小泉構造改革がもたらした」という見方も多く、野党がそれを強調すれば、与党の反発を招く可能性も充分にあったからです。
参議院の野党から提案された議員立法で、与野党が一体となる状況を生み出せたのは、山本さんにしかできない大きな功績でした。

山本さんは、代表質問の直前まで、他の議員への説得を欠かしませんでした。ライフリンクの清水康之代表が事務所を訪ねた時も、病身を押して、一緒に関係議員の事務所を回り、法案の趣旨を説明しました。
躊躇する議員がいると「これは私の置き土産ですから」と鬼気迫る表情で、協力を求めました。

ライフリンクや自殺防止センターなど民間22団体も法案成立へ奔走しました。
4月から「自殺対策の法制化を求める3万人署名」を始め、5月13日には秋田、大阪、東京(新宿)、神奈川(横須賀)、京都、福岡、佐賀などで全国一斉街頭署名を実施しました。
「3万人」は年間の自殺者の数からとったものです。多くの人が共感してくれました。6月7日に参議院議長に提出した署名は、目標の「3万人」を上回る「10万1055人」を数えました。

6月8日、自殺対策基本法案は超党派の議員立法で参議院内閣委員会に提出されました。早期に成立させるには、課題が山積する厚生労働委員会ではなく、内閣委員会で、質疑を省略し、参・衆両議院を通過させる離れ業が必要でした。
はたして会期末が迫る中、法案は、参議院内閣委員会、本会議、衆議院内閣委員会と全会一致で即日可決が続き、6月15日、衆議院本会議でも全会一致で可決されました。 自殺対策基本法は、ついに成立しました。

第2部 始まりの日 
2004年10月~2005年12月

2005年12月

政府方針まとまる

2005年は下半期に入っても、自殺対策をめぐって進展が続きました。
6月9日の参議院厚生労働委員会では、参議院議員の山本孝史さんが質問に立ち、尾辻秀久厚生労働大臣は「自殺対策に政府全体で取り組む」と決意を改めて語りました。
7月19日には、参議院厚生労働委員会が「自殺に関する総合対策の緊急かつ効果的な推進を求める決議」を全会一致で採択しました。
世界自殺予防デーの9月10日には、ライフリンクによる第3回シンポジウム「自殺対策のグランドデザインを考える」緊急フォーラムが開催され、全国の専門家ら約100人が集まり、対策を話し合いました。
このシンポジウムは、WHO(世界保健機関)が後援に入りました。設立されて間もないNPO法人の後援を、WHOが引き受けるのは極めて異例でした。
9月26日には政府の「自殺対策関係省庁連絡会議」が発足しました、省庁を横断する舞台ができたことで、12月には「自殺対策に関する政府方針」がまとまりました。

 官民それぞれの分野で、様々な取り組みが加速する中で迎えた年の瀬でした。
ところが、その立役者とも言うべき山本孝史さんに思いもかけない連絡が届きます。
血液検査でがんの発病がわかったのでした。肋骨の裏にある胸腺のがんでした。すでに肺と肝臓に転移しており、病状は末期と診断されました。そして「何もしなければ、余命は半年」と告知を受けました。
山本さんは、自殺対策とともにがん対策でも基本法をめざして活動をしていました。その自分が末期がんに侵されたことに、山本さんは運命を感じました。
「きょう一日、何ができるか、何をしなければならないか」。そう自らに問いかけながら、残りの人生は基本法の成立に賭けようと決意したのです。
すぐに自殺対策基本法の法案策定に着手しました。市民団体や専門家らの意見を取り入れながら、法案の草案は翌2006年2月にまとまることになります。

2005年12月

心揺さぶるシンポ、大臣動かす

自殺対策の大きな転機となり、今も語り継がれるシンポジウムが開かれました。
2005年5月30日、ライフリンクが主催し、参議院議員会館で初めて行われた自殺対策をテーマにしたシンポジウムです。
与野党の参議院厚生労働委員会理事が広く各党議員に参加を呼びかけ、尾辻秀久厚生労働大臣をはじめ11人の国会議員、約20人の議員代理、総勢200人を超す参加者に会場は超満員になりました。
シンポジウムでは、夫を亡くした女性が自らの壮絶な体験を、涙を流しながら語り、参加者の心を大きく揺さぶりました。
分刻みで動く多忙の中、出席した尾辻大臣は、そのまま45分間も席にとどまりました。退席の予定時刻が過ぎていることを秘書が何度も耳打ちしましたが、動かずにじっと聞き入っていました。

 尾辻大臣がやっと席を立とうとした時です。ライフリンクの清水康之代表が直訴に出ました。
「尾辻大臣、民間の現場も、自治体の現場も、もう限界なんです。あとは国が動くかどうかに掛かっています」
進行役の山本孝史参議院議員も、清水さんを援護する発言をして、尾辻大臣に自殺対策の推進を強く迫りました。
実は、シンポジウムを前にした打ち合わせで、尾辻大臣の出席に尽力した山本さんは、清水さんに「この機会を逃すと、大臣に直談判する機会はない」と直訴を薦めていたのでした。
ふたりの発言を受けて、尾辻大臣は真剣に検討することを約束しました。この「大臣の約束」は、その後の展開に大きな意味をもたらしました。
そして、尾辻氏は、大臣を退いた後も誠実に「約束」と向き合っていきます。

シンポジウムでは、ライフリンクのほかにも、東京自殺防止センターや親の自死を語る会などが発言しました。さらに自殺防止に取り組み全国の民間12団体がまとめた「国に対する5項目提言」も発表されました。
5項目は①国として自殺対策に取り組む意思を示す②効果的な予防策のために自殺の実態を調査・把握する③個人だけでなく社会を対象にした自殺対策を実施する④社会全体で自殺対策を行う体制をつくる⑤自殺未遂者と自死遺族への支援(心のケア)を行うーというものでした。
各団体が一堂につながり、それぞれの意見を集約し、ひとつの要望にまとめあげたことでも画期的なシンポジウムになったのです。

2005年2月

強力タッグの誕生

参議院から、しかも野党から提案された議員立法が通ることは極めて稀です。このため自殺対策の研究を終えていた参議院議員の山本孝史さんは、じっと好機を伺っていました。与野党に対立気運が強まる選挙前は避け、風向きが変わる時を待っていたのです。
2004年7月、山本さんが参議院幹事長として臨んだ参院選で、民主党は大勝しました。山本さんは翌8月、厚生労働委員会筆頭理事に就任します。そして11月、民主党内に「自殺総合対策ワーキングチーム」を立ち上げ、自らが座長になったのでした。

 2005年2月、自民党の参院厚生労働委員会筆頭理事の武見敬三さんから「衆議院予算委員会の開会中、参議院は開店休業状態だ。何かやろう」と持ち掛けられました。
まさに、渡りに船の提案でした。
山本さんは、即答します。「自殺問題を取り上げましょう」。
武見さんは、その後も、自殺対策のよき理解者として、強力な援軍になっていきます。

 止まっていたかに見えた時計が一気に動き始めました。
2月20日、ライフリンクが第1回「自殺対策“緊急”シンポジウム」を開きます。「自死遺族支援に向けて、遺族会のつながりを!」をテーマにしました。ここに山本さんの秘書、東加奈子さんが出席し、ついに山本さんとライフリンクの清水康之代表がつながりました。
2月24日には参議院厚生労働委員会で自殺問題についての参考人質疑が行われることになりました。東さんが清水代表に出席を打診するメールを出すと、清水代表はすぐに返信しました。「ぜひ傍聴したいです。どんな服装でいけばいいのでしょう」
清水代表も傍聴した参考人質疑の後、2人は意気投合し、力を合わせて自殺対策を進めることを誓い合います。
山本さんは法制化に向けて国会内の超党派議員をまとめることに傾注する。清水代表は国会の外から法制化に向けた動きを後押しできるよう社会に訴えていく。そう役割分担を決めました。

2004年10月

ライフリンク 苦難の船出

NHKを退職した清水康之代表らが立ち上げたNPO法人「自殺対策支援センター ライフリンク」を待ち構えていたのは、厳しい財務でした。
初年度は、年1万円の会費を払ってくれる人が十数人と、企業の助成団体からの30万円が収入のほぼすべてでした。翌年度はジョンソン・エンド・ジョンソンの社会貢献委員会から100万円の支援を受けましたが、人件費をねん出できる状況ではありませんでした。
企業を回っても「あなたの団体に支援していることがわかると、うちの自殺者が多いと思われてしまう」と断られていました。
事務所もなく、喫茶店をはしごしながらの仕事を続けました。東京23区内のルノアールの場所をほぼすべて把握したといいます。しかし、貯金を取り崩しながらの活動は、ついに首が回らなくなり、都内の賃貸マンションを引き払い、埼玉の実家に戻ることになりました。

清水代表が苦闘を続けている時、別の場所でも自殺対策に取り組む流れができつつありました。
ライフリンク設立の翌11月、民主党内に「自殺総合対策ワーキングチーム」が立ち上がりました。座長は、山本孝史さんでした。
山本さんは、2001年7月、参院議員として国会に戻った時、あしなが育英会の幹部から自殺対策の必要性を強く訴えられました。
育英会幹部の言葉を重く受け止めた山本さんは、その後も、地道に自殺対策の研究を続けていたのでした。秘書の東加奈子さんらが、国会議員の調査権を活用し、海外での実践例を集め、分析していました。
その成果は、A4判で60ページを超える資料にまとまりした。海外の対策や国内の動き、法制定へのシミュレーションまで書き込まれた画期的な内容でした。

2004年10月

決意のNHK退職

NHKの清水康之ディレクター(現ライフリンク代表)は悶々とした日々を送っていました。
厚生労働省の「自殺防止対策有識者懇談会」が2002年12月に出した「自殺予防に向けての提言」は、よく練られた内容でした。
自死遺児たちを取り上げた番組は反響も大きく、彼らの声を社会に届けたという思いもありました。
しかし、自殺に追い込まれる人は増え続けていました。
2003年に自殺に追い込まれた人は3万4427人と過去最高になり、6年連続の3万人超を記録してしまいました。

最大の問題は、提言が提言だけで終わってしまっていることでした。
提言に沿って社会が動けば、また番組にしようと取材を続けていましたが、厚生労働省は相変わらずうつ対策だけで、包括的・横断的な動きはまったくみられません。
地方自治体にしても「自殺対策って、行政がやる仕事なんですか」と聞き返される始末です。
そうした一向に動ない現状に、清水ディレクターは心を決めます。だったらもう、自分が現場に入ろうと。
そして2004年3月、NHKを退職します。32歳、明日からの収入がまったく見えないままの決断でした。
5月には、東京都にNPO法人認証の申請も行いました。
清水ディレクターは、代表になりました。

 団体の名称を「ライフリンク」としたのには、清水代表の思いがありました。
「みんなでつながり(リンク)あって、いのち(ライフ)を守ろう」「いのち(ライフ)を守るために、みんなでつながろう(リンク)」という意思を込めたのです。
2004年10月、NPO法人「自殺対策支援センター ライフリンク」が発足しました。

第1部 始まりの前に 
1999年秋~2004年10月

2002年2月・11月

行政は動き出したのか

行政もようやく自殺対策に動き始めます。
2002年2月には、厚生労働省が「自殺防止対策有識者懇談会」を発足させました。それまではうつ病対策だけで終わっていた行政の自殺対策でしたが、そこから一歩を踏み出したのです。
有識者懇談会はこの年の12月、「自殺予防に向けての提言」をまとめました。提言では、「自殺対策は緊急の課題であること」「自殺はすべての国民にとって身近に存在しうる問題であること」「精神医学的観点のみならず、心理学的観点、社会的、文化的、経済的観点等から多角的な検討と包括的な対策が必要であること」が謳われました。
さらに「自殺とは追い込まれての死であること」が明示され、「自殺は自ら選んだのではなく、『唯一の解決策が自殺しかない』という状態に追い込まれた」ものだとはっきり位置づけられたのです。
また、「未遂者、遺族へのケアが重要であり、自殺で遺された家族・友人等は、心に深い傷を負っているのであるからにして、彼らの対する支援は極めて重要だ」と指摘されました。

 提言が出た前月の11月には、自死遺児たちによる「自殺って言えなかった」がサンマーク出版から刊行されました。大きな反響を呼んだ冊子「自殺って言えない」をもとに、その反響、運動の経緯、遺児たちの座談会、実態調査などを加味した本です。
冊子の題名は「言えない」という現在形でしたが、この本は「言えなかった」と過去形にしました。
書名は、自死遺児たち自身が考え、ブックカバーのデザインも自分たちが被写体になりました。
NHKの清水康之ディレクター(現ライフリンク代表)は、本の出版に合わせ8分間の特集「支え合う自死遺児たち」を制作し、NHKの朝のニュース番組「おはよう日本」で全国放送されました。ここでも大きな反響を呼び、自殺対策は順調に進むかに見えました。
しかしー。

2001年10月・12月

実現した自死遺児たちと首相の面会

2001年10月23日、清水康之ディレクター(現ライフリンク代表)が制作したNHK番組「クローズアップ現代」の「お父さん死なないで ~親の自殺 遺された子供たち」が放映されました。
自死遺児の一人が顔を出し名前を明らかにして出演し、自分の言葉で取材に答え、自らの死別体験を語りました。
その覚悟と決意は多くの視聴者の胸を打ちました。
反響は想像を超えるもので、様々なところへと波及し、事態を動かしていきます。
そして、放送から40日後の12月3日、10人の自死遺児たちが首相官邸を訪れ、小泉純一郎首相に「自殺防止の提言」を陳情したのです。
その日、7人の遺児は実名を公表し、顔も隠さずに記者会見を行いました。連続シンポジウムの蓄積と、清水ディレクターの思いに遺児のひとりが共鳴し、自ら一歩を踏み出したことが大きなうねりを起こし、事態を劇的に変えたのでした。

 この時に行った「自殺防止の提言」は「自殺は社会問題であり、人権問題である」と明確に定義づけました。
その上で「急増する自殺は、個人の問題ではない。弱肉強食の社会で問題を一人に背負わせ、死に追いやる。遺族は、偏見や差別に一生苦しむ。社会全体で自殺に向き合おう」と呼びかけました。
具体策としては①自殺統計の早期発表と実態調査の実施②働き盛りの自殺防止のためのセイフティネットの確立③すべての医療機関が連携してうつ病対策をー-を挙げました。理念と方策を見事に整理した特筆すべき内容でした。

 NHKは12月24日のクリスマスイブ、その年に話題になった番組を特集する「クローズアップ現代スペシャル」が放映され、「お父さん死なないで」がそこに選ばれました。
遺児の一人もイブを楽しむ友人たちとともに生出演し、笑顔で国谷裕子キャスターと言葉を交わしました。

2001年7月

いのちの政治家 山本孝史さん

現在の自殺対策が構築されていくヒストリーの中で、決して忘れることのできない人物がいます。
山本孝史さんです。
交通遺児育英会事務局長から日本新党の衆院議員となり、その後、民主党の参院議員に転じましたが、2007年12月、在職中にがんで亡くなりました。58歳の若さでした。

2001年7月、山本さんは参院大阪選挙区で当選します。その前年の00年6月の衆院選で落選していましたが、捲土重来を果たし、国会に戻ってきたのでした。
当選した山本さんに、あしなが育英会の幹部の一人が電話をかけ、「自死遺児が心に背負っている問題が極めて重い。職員もどう対応していいのか心を痛めている」と打ち明けました。
山本さんが「自殺対策は厚生労働省がうつ病対策として取り組んでいます」と答えると、幹部は「そこが違う。自殺は社会問題として取り組まないと絶対に解決しない」と強い言葉で指摘しました。
これを機に、山本さんは自殺対策の政策研究を始めます。

 ところが、調べてみると、自殺対策は政策として極めて難物であることがわかりました。
まず、自殺対策を社会問題ととらえる認識が社会に広がっていませんでした。そして、何より「当事者」の不在です。
自殺を考える人たちは、極限まで追い詰められており、政策実現を求める声をあげることは困難です。自死遺族たちは「隠したい」「忘れたい」と考え、前面には出ようとしません。陳情を受けて始まる通常の法整備とはまるで状況が違っていました。
こうした「票にならない」制度づくりに、議会が同意してくれるのか。山本さんは途方に暮れてしまいました。でも、何とかしなければ。さて、どうするー。 

2001年2月

シンポジウム開催、遺児たちの決意

2001年2月に開かれたあしなが育英会の自死遺児ミーティングでは、またひとつ新たな提案が生まれました。
文集「自死で遺された子ども・妻の文集 自殺って言えない」に寄せられた反響の手紙を読み合ううちに、参加した自死遺児たちから「今度は自分の生の声で、心の痛みと体験を語りたい」という声があがったのです。
そして「シンポジウムを開催してはどうだろうか」と。
あしなが育英会の幹部たちも「この問題に向き合うことは社会のあり方を考え直すことにつながる。感傷にとどまるのではなく、社会問題として訴えていく必要がある」と同意しました。
こうして、全国を行脚する連続シンポジウムが組まれたのです。

 シンポジウムは4月から東京、福岡、佐賀、名古屋、秋田、熊本、松山、広島、新潟と開かれていきました。開催場所によっては、自死遺児だけでなく、がん遺児、犯罪被害の遺児も登壇しました。
濃密な時間が繰り返し共有されたことで、自死遺児たちの意識にも変化が生まれていきました。
ずっと遺児たちに寄り添ってきたあしなが育英会の幹部の一人は振り返ります。
「人の前で話すことで、彼らは自らの体験を社会的視野の中で考えられるようになった。ついに自殺問題を考える『当事者』が誕生したのだ。そもそも『当事者』がいないと、その問題を解決する運動も環境をつくれない。とりわけ自死の問題は、『当事者』の意識が何よりも大切になる。 『当事者』とは、その立場にあるというだけでなく、強い意思をもって自らの役割を担ってこそ、なれるものだから」

2000年8月

覚悟と決心の番組制作

あしなが育英会の合宿「夏のつどい」に参加したNHKの清水康之ディレクター(現ライフリンク代表)は、父親を亡くした男子大学生の「自分語り」に引き込まれていきます。

「僕のお父さんは自殺しました」。そこから彼はもう涙が止まりません。「お父さんとよく釣りに行ったんだけど、その釣りにももう行けなくなってしまった。たぶん借金を苦にしてなくなってしまったんだけど、今も僕たちはその工務店に住んでいて、きっとこの家を守るためにお父さんは死んでしまったんだと思う。僕が私立の学校に行っていてお金がかかってしまったから、それでお父さんに負担をかけてしまったんじゃないか。このことは友達にも言えなくて、聞かれるのが怖いから、友達もつくらないようにしている」

 話すことすらできない。話せないから、友達もつくらない。清水ディレクターは、親を亡くした自死遺児の追い詰められた姿に、何重もの衝撃を受けました。
そして、この合宿に参加したことで、「話を聞かせてくれてありがとう」と言うだけではすまされない責任を背負ったと感じます。

清水ディレクターは、あしなが育英会から東京にいる自死遺児の大学生たちを紹介されます。
清水ディレクターは大学生たちに、テレビ番組で自殺問題を報じたいと思っていること、そして、もし出演してくれる場合は、顔も名前も出すことを承諾してほしいと伝えました。
顔をぼかし、声を変えて、名前も仮名にしての出演は、「親を亡くした子どもは、顔も名前も隠して生きていかなければならない存在」だという全く誤ったメッセージになりかねないという強い思いからでした。

一方で、顔や名前を出すことで周囲から何を言われるかも分かりません。清水ディレクターは、顔や名前を出して体験を語ることのメリットとデメリットを率直に遺児たちに伝えて、本人たちが決断してくれるのを待ちました。そうした中、ひとりの大学生遺児が「清水さんの取材をぜひ受けさせてください」と名乗りでます。

清水ディレクターが制作したNHK番組「クローズアップ現代」の「お父さん死なないで ~親の自殺 遺された子供たち」は2001年10月23日に放映されます。

自死遺児たちの覚悟と決心、そして、それを受けた清水ディレクターの番組は、大きな反響を呼び、様々な形で自殺対策を大きく動かしていくことになります。これについては後ほど詳しく紹介します。

2000年8月

清水ディレクターの取材始まる

 NHK札幌放送局で報道番組を担当していた清水康之ディレクター(現ライフリンク代表)は、自死遺児11人による文集委員会とあしなが育英会が編者となり刊行された「自死で遺された子ども・妻の文集 自殺って言えない」を読んで衝撃を受けます。

高校生3人、大学生9人、妻5人の計17人の手記は、どれもが魂の叫びを綴った心揺さぶられるものでした。

中学2年の時、父親が自死した大学生の男子は、自死の前日のことを振り返っていました。お風呂に入っていると、突然父親がお風呂に入ってきたといいます。「今日に限ってなぜ?」といぶかりながら、恥ずかしくて、そそくさと浴室を出てしまいました。

もし、あの時、優しい言葉をかけていたら、父親は死ななかったかも知れない、と彼はずっと自分を責め続けていました。

ぜひとも子どもたちの話を聞いてみたい。清水ディレクターは、すぐにあしなが育英会に連絡しました。

 2000年8月、清水ディレクターは北海道地区の高校奨学生を対象にして、あしなが育英会が開いた3泊4日の「夏のつどい」に参加します。

28歳だった清水ディレクターは、NHKの職員であることを明かしたうえで、子どもたちに受け入れてもらえるよう、寸劇で女装に応じたり、バスケットボールや大縄跳びで一緒に汗を流したりしました。

そして3日目、交通遺児や災害遺児、そして自死遺児らを含んだ15人ほどの「自分史語り」の輪の中に入ります。

それぞれが親との死別体験を語り、残り5人くらいになった時、高校1年生の男子が震え出したことに清水ディレクターは気づきます。

 残り2人になった時、震えは全身に広がっていました。すると、その男子生徒は挙手をして「僕のお父さんは…」と声を上げました。

しかし、そこで言葉がとまり、に震えはさらに激しくなり、清水ディレクターは壊れてしまうのではないかと動揺しました。

5分間もそんな状態が続いたでしょうか。男子生徒は徐々に落ち着きを取り戻し、そして、ついに「僕のお父さんは自殺しました」と切り出したのです。

2000年4月

歴史を刻む冊子の誕生

2000年2月に行われた2泊3日の自死遺族ミーティングが終わろうとしていました。

遺児の多くは親の自死の現場も見ていました。互いが抱える苛烈な現実を共有し、参加者たちは激しく消耗しました。一方で、しっかりとつながることができました。

3日目の朝、ひとりの学生が発言しました。
「こういう会に来られない子どもたちもいます。文集にして伝えらないでしょうか」

この提案が、歴史を刻む1冊の文集を生み出すことになります。

2000年4月、参加した11人による自死遺族文集委員会とあしなが育英会が編者となり「自死で遺された子ども・妻の文集 自殺って言えない」が刊行されました。高校生3人、大学生9人、妻5人の計17人の手記をA5判36ページにまとめたものです。最初は3千部を刷りました。

 すさまじい反響が起きました。

1週間だけで1500件もの照会があり、「命の教育に使いたい」という学校現場をはじめ各種団体からの要請が相次ぎ、結局は、のべ13万部を発行することになりました。あしなが育英会はこれをすべて無料で配布続けました。

自死遺児たちからの手紙も数多く届きました。35歳のカズミ(匿名)さんからは「やっと出会えた」と題した詩が送られてきました。

「ボールを投げてくれて、ありがとう やっと出会えた 受け取るし、投げ返すよ 出会えたことが(悲しいことだけれど) とてもうれしい 勇気を出してくれてありがとう 一人じゃなく みんなで考えていけるんだよね」

あしなが育英会には、自殺を考える人から重い相談も入るようになりました。そして、反響の大きさは、マスメディアも動かすことになります。

2000年1月

自死遺児たちの突き刺さる言葉

大学生の自死遺児たちの勇気ある告白で、あしなが学生募金で自死遺族支援は始まりました。

しかし、あしなが育英会には心配なことがありました。支援活動によって、遺児たちが集まる「夏のつどい」には、自死遺児の参加が増えると見込まれます。

その時、遺児たちのどう接すればいいのか。

2000年1月、職員の一人が、JR佐賀駅前のトンカツ屋で3人の自殺遺児と会い、彼らに言いました。

「つどいに参加する自死遺族の後輩を傷付けてはいけない。後輩が来たら、どう対応したら良いか誰も分からない。まず遺児同士が会うことが大切だと思う」

大学生遺児が呼びかけ役になり、2月に、川崎市青少年の家で「第1回自死遺児ミーティング」が2泊3日で開かれました。

北海道から九州まで全国から11人の学生が参加し、あしなが育英会からは3人の職員が加わりました。

ミーティングが始まりました。

全員が自死遺児とわかっていても、参加者たちはなかなか自らの体験を語ることができませんでした。5分も10分も沈黙が続きました。

家族の中でさえ話題にもできず、周囲に知られないようにとびくびくしながら過ごしてきた遺児たち。長い沈黙は、その時間の重さを示していました。

しかし、少しずつ言葉が出てきました。

「小学3年生の冬休み部屋のドアを開けたら、父が首を吊って自殺していました。6歳の弟は1週間も寝込み、私は無数の黒い虫に襲われる夢に何度もうなされ…」
「僕のせいでお父さんは自殺したんだ!」

育英会から参加した3人は全員交通遺児で、親との死別を経験しています。これまで何百人もの交通遺児の自分史を聞いてきました。
しかし、これほど胸に突き刺さる言葉は初めてでした。

1999年秋

自殺者3万人の時代が来た

「98年の自殺者が97年の2万4千人から3万2千人に急増」。衝撃のニュースが新聞の見出しになりました。

これを見たあしなが育英会の職員の方々は「これは大変なことになる」と危機感を募らせたといいます。

交通遺児の支援から始まったあしなが育英会ですが、自殺で親を失った遺児にも奨学金を貸与していました。
のちに副田義也・筑波大学名誉教授らが人口動態統計などを分析してわかることですが、3万2千人の自殺者とは、毎日30人の遺児ができていることを意味していました。これは交通遺児の4倍にあたる人数でした。

あしなが育英会は自死遺児のケアに乗り出します。最初の一歩となったのはが「自分史語り」でした。

「自分史語り」は、交通遺児たちとの間で始まった取り組みでした。遺児たちは、ともに語ることによって連帯が生まれ、前向きに生きる力を手にしていました。

同じように、自死遺児たちを励ますことはできないだろうか、とあしなが育英会は考えたといいます。
ただ、自死遺児たちが親との死別体験を語ることは、次元の違う負担が求められます。
周囲の人たちにも、触れてはいけないこと、思い出させてはいけないことだという見方もありました。

しかし、その「封印」がついに解かれることになります。

この年の秋、東京都の街頭募金の場で行われたあしなが学生募金オープニングセレモニーで、自死遺児の大学生らが初めて自らの死別体験を語ったのです。

それまで、誰にも言えず、胸の中にためこんでいた思いを伝えました。顔と名前は伏せられましたが、報道もされました。この勇気によって自死遺児の支援活動が始まり、その後、一気に加速することになります。